2013年3月22日金曜日

「なにわの海の時空館」閉館への思い


「なにわの海の時空館」閉館への思い

                   岡本 朝也 (大阪自由大学事務局) 


2013310日、大阪市立海洋博物館「なにわの海の時空館」が閉館した。市民有志によるコンサートがあったほかは、公式のセレモニーもなく、それどころか閉館の告知(表示)すらない、寂しい閉幕だった。日本で唯一の実物大復元菱垣廻船を収めたガラスドーム型の建物は閉鎖され、見学はもうできなくなった。大阪市は何のねぎらいも、惜別もなく、まるで要らなくなった古い履物であるかのようにこの博物館を捨てた。

僕は午後の数時間、隅々まで博物館を回った。最後だと思うと、おなじみの展示物の一つ一つが愛おしかった。外は激しい雨だったが、メディアで取り上げられたせいだろう、これまでに見たこともないほどたくさんの人が観覧にやってきていた。

僕は人々の話し声に耳を傾け「面白いな」という言葉に喜び、「ようわからんな」という言葉に落胆した。まるで、どれだけのリピーターが期待できるのかを考えるように。明日以降も館があるつもりでいるのかと思うと、我ながらおかしかった。

もちろん、職員でも関係者でもないというのに。時空館には夕方までいて、閉館の1時間ほど前に退出した。館が閉じられる瞬間に立ち会う気持ちには到底なれなかった。帰り道、地下鉄中央線のコスモスクエア駅まで歩くと、強い潮風が目に沁みた。

初めて時空館を訪れたのは、2002年の開館して間もなくの頃だった。司馬遼太郎の『菜の花の沖』を読んで以来ずっと憧れていた和船の実物に会えることに興奮し、館内に入ってすぐのところで黒い船底を見上げて復元菱垣廻船の「浪華丸」に惚れ込んだ。夢中になって館内を回り、資料を沢山買い込んで帰宅したのを覚えている。

その後も、幾度か時空館に通った。江戸時代からの伝統と明治以降の社会の近代化に興味を持つ僕にとって、時空館は夢の場所だった。実物そのままの菱垣廻船の復元船があり、更にさまざまな展示を通じて、知識と感覚の両方から江戸時代を学ぶことができたからだ。

もちろん、時空館は図書館ではないから、さまざまな資料を活用するという点では限界がある。専門分野がやや違うこともあって、数年間足が遠のいていたのはやむを得なかった。そこへ、この春、大阪市が閉館を検討しているという話が飛び込んできたのだ。

最初、僕はその不見識に唖然とした。大阪市が率先して時空館の閉鎖を提案するなど、ありえないことに思えたのだ。浪華丸はもちろん「水都」大阪のシンボルで、教育にも観光にもインパクトがある。

それ以外にも、時空館には重要な展示物が多くあった。たとえば、中之島を含むかつての大坂湊の詳細なジオラマは、他の博物館にはないものだ。今の市域に点在していた造船や海運の拠点の地図や、河川整備と灌漑の展示もそうだ。大阪は海に開かれ、港とともに発展してきた街だった。時空館は、我々が忘れているその事実を教えてくれる場所だったのだ。それが閉鎖されるなどということはあってはならないと思った。

大阪自由大学でも、時空館問題への取り組みを行った。11月に松木哲さん、脇本祐一さん、木津川学長のお三方をお招きしてシンポジウムを開催し、大阪を理解するには船と海という視点が不可欠であることを訴えた。また、12月には菱垣廻船復元委員でもある松木さんに講師をお願いして時空館の現地見学会を行い、あらためて博物館の意義をアピールした。

時空館にゆかりのある方々も署名運動やマスコミへの訴え、大阪市への要望など、様々な形で動かれていた。しかし、それらは社会に大きなムーブメントを起こすことなく終わった。我々の訴えは空しかった。閉館の是非はほとんど議論されることもなく、手続きは淡々と進み(大阪市の側からすれば、施設再利用の公募に申込みがなかったことだけが誤算だっただろう)、寂しい閉館となった。

こうして、一連の活動は敗北にしか終わらなかったのだが、しかし、その中でも色々と学ぶことはあった。たとえば、時空館の「採算化」にはそもそも無理があるということがそれだ。一時期、NPOで館を運営できないかと考えたことがあって、計算してみるとそれがわかった。時空館の運営には毎月1億円の経費が見込まれる(ガラスドームのために光熱費が膨大にかかるのだ)。
 
2011年度、時空館の入場者は約9万人、入場料収入は2,700万円だった。大雑把に人当り300円で、600円の入場料を負担する大人と入場無料の子どもが半分ずつだった計算になる。この比率が変わらないとすると、赤字を出さないためには年間400万人の入場者が必要である。これは国内で最も入場者の多い東京の国立博物館の入場者(2011年で194万人)の約2倍という数字だ。仮に入場料を3倍にしたとしても、広島の平和記念資料館(年間121万人)や江戸東京博物館(年間120万人)に匹敵する集客が要求される。これが可能かといえば、よほどの幸運に恵まれない限りは無理に決まっている。時空館は最初から不採算になることを運命づけられた施設だったのだ。

時空館の不幸は、二つの異なった目的のために設立されたことにその一因がある。大阪港のシンボルとして埋立地にガラスドームを建てたいという大阪市港湾局の意向と、菱垣廻船を復元して関連資料とともに展示したいという学会の意思が合わさって、あの特異な形状を持つ博物館ができたのだ。すべてが上手くいっていれば「二つの組織のコラボレーションの成功例」になるところだったのだが、実際に起こったのはオリンピック誘致の失敗に端を発する開発の挫折と不況による財政の悪化だった。

結果として、博物館として最善とはいえない建物の形状からくる巨額の維持費、他の大阪市の博物館からの孤立、教育施設としても中途半端な予算配分、などの問題が生じることになったのだ。色々と勉強していてわかったのは、閉館の決定は必ずしも橋下市政とは関係がないということだった。時空館はそもそも赤字にしかなりようがない施設だった。閉館の実質的な決断は、平松市長の時代に既にされていたようだ。

だが、そもそも「赤字にしない」ということは可能なのだろうか?時空館の動員力は、2011年の数字である入場料収入2700万円、入場者9万人という数字から考えるしかないと思われる。菱垣廻船と大坂湊関連展示の集客力がこれだけだったということだ。立地を変えれば状況は良くなるかもしれないが、そもそも大阪歴史博物館ですら入場者が年間31万人なので、大幅な増加は難しいだろう。だとすると、収支のバランスをとれば予算はせいぜい34000万円にとどまる。

どれほど建物と人員をコンパクトにしたとしても、これで博物館を運営することは困難だと言わざるを得ない。おそらく、この3-4倍程度はかかってしまうだろう。となれば、間接的な収入で補うしかない。ミュージアムショップを運営するとか、いくつかの施設と連携しつつ観光客の誘致をして、業界からの寄付を募るといったようなことだ。学校教育や社会教育にも利用できれば地元の学校の学生数や転入してくる住民数の増加も期待できるから、その業界にもアピールができる。

だが、ここで再び我々は考え込んでしまうことになる。地域の様々な存在の利益になるような施設を作ること、そのための資金を集めてくることは、そもそも地方公共団体の仕事ではないだろうか。選挙で選ばれた議員や首長がそうしたことを考えるのを放棄し、橋下市長が時空館について言ったように「やりたい人はどうぞ自分でやってください」と宣言するというのは、一体どういうことなのだろう。あるいは、仮に「公共施設の民営化」が成功したとして、その施設は開かれたものというより、社会の分断を促進するようなものにならないだろうか。

時空館の問題と一年近く向き合ってきて、焦点は「公共性」の位置づけにあると感じるようになった。一方にこれまでのような、将来の成長を見込んだ大盤振舞いはもうできないという問題があり、他方に採算性のないものをすべて廃止していては社会が成り立たないという問題がある。そしてまた、受益者負担の原則が負担能力のない人の切り捨てにつながらないかという懸念もある。こうしたことを、我々は解決していかなければならないのだと思う。

そして何より、時空館の問題はまだ終わっていない。跡地利用の応募がなかったため、閉館後の処遇は未定のままである。大阪市は、館内の学術調査の機会を設けることには同意したものの、浪華丸や各種の展示品(その中には貴重な芸術品や学術資料も含まれる)の保存や移管について、何の方針も示していない。専門家でない市民としての限界は大きいのだが、今後もこの件をフォローしながら、まだ考え続けてゆきたい。

[時空館」については下記の大阪自由大学岡本研究室に掲載しています。
http://ofuannex.blogspot.jp/2012/10/blog-post_12.html


1 件のコメント:

  1. お疲れさまでした。「浪華丸」のゆくえについて今後もみまもっていきましょう。池田知隆

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